視点の問題なのか?(『ボーダーライン』シリーズ)

 『ボーダーライン』はクソ邦題だ。まごうことなく。きっと、米墨の国境を念頭にしながら、主人公とアレハンドロの完璧に交わりえぬ関係を…とのことだろうが、テーマをとことんまで矮小化してる上に、邦題訳した本人のドヤ顔までセットで想像できるあたり非常に腹立たしい。
 原題は『Sicario』で、「殺し屋」という意味だ。そう、これは最初から最後までSicarioを描いた映画なのだ。主人公はこのSicarioたちと行動を共にするも常にその外側にいて、つまり、『Sicario』を観る我々が同じ視点を共有している。この映画内の第三者視点によってSicarioについて掘り下げていくのが基本的構造。
 じゃあ、ハブられっぱなしの主人公は最終的にどこに着地させるのかというと、告発しようとする主人公と口封じの契約書にサインをさせようとするアレハンドロのシーンで、そこで主人公は最終的に契約書にサインしちゃう。その後、去っていくアレハンドロを撃とうとするもできない。だから、この映画の結末は、Sicarioを殺すためにSicarioになれるのかというところになる。結果としてなれない訳だけど。
 たしかにこの結末部分が一番「ボーダーライン」っぽいところだと思うけど、あくまでその境界は手段でしかなくて、描かれているのは境界の反対側に存在するSicarioの存在。題からこの部分を落とすと、途端にこの映画はぼやけてくる。よく分からん奴らにハブられてイラッときたから撃とうとしてみたって話になりかねない。

 バカにしやがって…

 ただ、ここまでなら1万歩譲ってその題で成り立ってたと言えないこともない。譲れないが、主人公がボーダーラインの上に乗っかってると納得して無理やり言えたということにする。しかし、続編が出来てしまったことで「ボーダーライン」は完全に崩壊する。
 『ボーダーライン2 ソルジャーズデイ』では、1の主人公は退場し、視点はアレハンドロと相棒のマットへと移行する。一応マフィアのボスの娘が観察者として視聴者と視点を重ねることもあるが、その主軸は常にアレハンドロである。第一作では、主人公は(こちら側に立って)あちら側のSicarioの世界を炙り出す役割を果たしたけど、第二作では(一歩あちら側に踏み入って)娘がアレハンドロ本人を炙り出す役割を果たす。だから、マフィアのボスの娘と言うのからもわかると思うけど、そもそも「ボーダーライン」を超えちゃった向こう側の話なのである。
 超えちゃってるのに『ボーダーライン』という題にするのは、よほど深淵なテーマを読み解いたか、もしくは、アホの骨頂である。

 なんでこの話にしたかと言えば、先日、押井守の映画評の本を読んでたら、『ボーダーライン2 ソルジャーズデイ』がボーダーラインに立っていないと批判されていたからである。そりゃそうだ、「ボーダーライン」じゃないんだもの。