言うなれば、JOKERとは合わせ鏡

話題のJOKER、最初見たときはヒース=ジョーカーのテイストを延長したのかなと思っていた。
つまり、悪の化身がどこからともなくやってくる、更に言い換えれば、自身が最初からジョーカーであったと気づく(ジョーカーになるのではなくて)、という物語。

ただ、その後に周囲の評価やレビューを見てみると、あまりにも解釈に開きがありすぎる。そして、その其々が自らこそがジョーカーを分かっているのであった。

苦悶のうちに母を殺したと言う者があれば、喜びのうちに殺したと言う者もある。その出自も、里子で不明であったり、ウェインの落とし子であったりする。
要するに、テーマ以前にストーリーが解釈間の矛盾を容認するようにできている。そもそも1つのストーリーを語る気がないほどに。

この映画には様々なアイコンが散りばめられていて、それは川の石のように楔となって流れを分けていく。僕たちはそれを好きなように選び取って、好きなように形を整える。

そうだとするならば、自分だけがジョーカーを分かっているのは至極当然のことだ。なぜなら、そのジョーカーは自分が好きなように作り出したものなのだから。

逆に言えば、自分のコンプレックスや悲しみ、悪性観、何かにつけて自己の中にあるもの(自分ではないというものも含めて)をジョーカーに投影することで、初めてこの映画はストーリーを語り始める。

そういう意味で、誰しもがジョーカーになれるし、同時に、最初からジョーカーなんてものは存在しない虚像なのだった。