桜降れば黄泉の国。(「1917」)

 2月は就活シーズンも本格化、周囲には不安と緊張感が漂っている。留年を決め込んだ僕もその気に当てられて昼に外へ出るようになった。就活も一応触りはしてるけど、気づけば本末転倒なことに、この1年間で最も映画館へ足を運んだ月になった。

 エキスポシティにはIMX/GTレーザーなるシアターがあって、少し前までは日本に一台しかない設備だった。最近になって東京にも導入されたらしくて珍しさも幾分なくなったけど視聴環境としては今なお優良で、その珍しさからくる高揚感を差し引いても作品への評価は優に4割を増す。
 初めて来たのは「ダンケルク」の時で、当時はここじゃないとフル規格で観ることができなかった。通常シアターだとフル規格の40%くらいが切られてるらしい。HAT神戸の109シネマズで一回観てたぶん、このフル規格の威力は絶大で、炸裂する巨大な爆炎の恐ろしさに一瞬で虜になった。それ以降、戦争スペクタクルはなるべくここで観るようにしている。確か、「ハクソーリッジ」を観たのもここだったような気がする。
 
 サム・メンデスロジャー・ディーキンスが組んでワンショット風映画、しかも戦争ものを撮るとの噂を聞いたのは、半年以上前のこと。このタッグといえば、「スカイフォール」を冗談抜きでボンド映画の金字塔にしてしまった最強の組み合わせ。その彼らが戦争ものをワンショットで撮るらしい。聞いただけで分かるその有り得なさと期待感が綯交ぜになり、公開を今か今かと待ちわび、観るときは必ずエキスポシティで観ようと決めていた。ただ、公開が思ったより遅く、オスカー作品賞での「パラサイト」との一騎打ちが作品を観る前に決してしまったけど…。

以下全てネタバレ。

 ワンショット「風」であるとのことで、どこが編集されてるのかいちいちあら探ししてやろうと思いつつ臨んだエキスポシティでの鑑賞、初っ端は塹壕の中で話が進んでいくので空間が限定的で割と今まであったワンショット風映画と同じようなカメラ回しに見えた。ワンショット特有の静かな緊張感が続く。
 ただその塹壕が吹っ飛ばされたところからがこの映画の始まり。一気にあたかもカットありの映画のようなアグレッシブな画が畳み掛けてくる。こうなれば、最早あら探しなどしてる場合ではない。撮り方も次の展開も訳も分からぬまま、いつの間にか映画の中に取り込まれていく。
 崩落する地下塹壕から脱出し、墜落してくる敵の戦闘機を躱し、市街地の建物の中からこちらを狙撃するスナイパーへと忍び寄るも、彼にそのヘルメットを撃ち抜かれて、視界が暗転する。
 ワンショットの体を保つつもり無いじゃないかと思うかもしれないけど、最早大したことじゃない。地獄巡りが始まる。
 意識を取り戻すと既に深夜になっていて、外へ出てみれば、燃え盛る市街地。光と影のみで象られる街の残骸を半ば陶然としつつ歩いていくと、正面には轟々と眩しく炎が吹き出る崩れかけの修道院、そこに一つの人影が現れ、揺らめきながらこちらへ歩いてくるので、呼応するが如くゆらゆらと近付いて行くと、瞬間、炸裂音とともに頬を銃弾が掠める。正気に戻り慌てて逃げ出す。出口も分からぬまま市街を駆け巡る。セットの仕組みを解明しようと意気込んだのが災いして僕も何が何だか分からなくなる。
 辛うじて逃げ込んだ半地下には赤子を抱えた女がいて、言葉は通じない。ランプの灯りに照らされた顔がやけに生々しく映る。これまで大事にとっておいた食料の全てを彼らに渡す。引き留められ生暖かい誘惑にかられながらも、鐘の音を聞いて自らの使命を思い出し、再び燃え盛る街へと戻っていく。
 敵に追われ、武器を失い、夜も白み始めた市街地を逃げ惑い、街の外れを流れる川へと飛び込んだ。川の流れは速く、遂には濁流となってこちらを飲み込む。また視界が暗転する。
 目を覚ますといつの間にか、周囲は明るく、流れは穏やかになっていて、桜の花びらが舞っていた。流木に捕まり流れ着いた先には膨らみきった水死体がボコボコと浮かんでいる。キリスト教世界では三途の川の辺りには桜が咲いているらしい。ここでやっと地獄から解放されたことに気付く。
 明方からの総攻撃の中止の伝令を命じられているため空の明るさに絶望しながらも、行く宛がない故に取り敢えず目的地へと向かっていると、森の中で歌によって祝福される兵士たちを見つける。聞けば目的の軍の部隊であった。再び使命への希望を見出し、敵の砲撃に曝され吹き飛ぶ塹壕を、一斉に兵が突撃する最前線を駆ける。ドクターストレンジ演じる司令官は、命令の無意味さを感じさせつつも総攻撃中止を命じ、使命は果たされる。
 使命を全うした主人公は、円環の終結か再開か、始まりに映ったのと同じ木に同じようにもたれかかり、この映画は幕を閉じる。

 
 ワンショット映画で感じさせる時間の流れ方は、登場人物の行動をそのまま反映するのでかなり現実に近い。だから、そういった現実的時間感覚による緊張を観客に強いることとなる。その点は「1917」でも同じだ。
 ただ、カットありの映画には編集の作業があり、映画内世界の時間経過は現実のそれとは全く異なる。単純な話、それから5年…とか言うことが容易に可能なのである。「1917」内世界の時間経過はこれに近い。2時間のうちに昼から夜へ、夜から朝へ、塹壕から街へ、街から再び塹壕へ、とても普通では追いつけない速さで時間、空間が変化する。
 こういった世界に現実的時間感覚で臨まされるのが「1917」の特徴だと思う。目の前の出来事にあたふたしてる間に、気づけば周囲の様相がまるで異なってしまって、最早神話的とも言える世界が現れる。ワンショット映画であるとの事前の刷り込みが更にそれを増幅させる。
 少しでも映画世界の時間と観る側の時間のバランスが壊れると間違いなくハチャメチャなことになる。そう考えれば、決定的に舞台が変わる夜と朝を強制シャットアウトしたのは、技術的問題も含めて、しょうがないのかなとは思う。ワンカットの「生」感自体を追い求めた作品ではないし、別に問題ではないんじゃないか。映画内世界の中に現実的時間を投影する、微妙なバランスで成立するこの目論見を危うくも成立させた時点ですでに奇跡だ。

 画面の美しさがワンショットと併在してたのも素晴らしい。特に夜の市街地は「地獄の黙示録」で感じた、もしくはそれ以上の地獄の姿だった。黒の濃ゆさとそれににじむようなオレンジのバランス、主人公の顔にそれが投影されたときはまるで絵画のようだった。ロジャー・ディーキンスが撮影監督するだけで作品の魅力が飛躍的に向上する法則がまた更新されてしまう。

 かなり実験的な映画だったとは思うけど、それを感じさせぬ没入感、美しさがあり全体的に満足。ただ何か一つ言うならば、ストーリーがFPSのキャンペーンモードみたいだった。逆に凝られても邪魔になるからシンプルなのはいいんだけど、重要作戦の伝令に二人は無いだろってなった。
 あと、かなり優良な視聴環境で観たのもあって、DVDではたぶん観ない。